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客観性
客観性とか普遍性という言葉には、私やあなた、彼らといった特定の立場を超えて、すべての人に受け入れられる真理というイメージがある。では、主観的に生きざるを得ない我々が、その客観性に近づくにはどうしたらいいのか。その際に、いきなりすべての人の視点に立とうとするのは不可能だ。

最近生徒が書いた答案(力作だった!)には、エスペラント語は、ヨーロッパの言語を土台にしていたからではなく、すべての人を対象とした言語をつくろうとしたがゆえに、誰にとっても使えない言語になった、という鋭い指摘があった。まさにその通りであろう。

客観的な視点というのは、私(たち)が、私(たち)と異質な考えや背景を持った他者と出会い、その間に生じる齟齬や摩擦を経験し、妥協的一致点を探り出す思考によって、ようやくそこに近づいていけるようなものであろう。あらかじめ誰にとっても受け入れられるような事実認識、現実認識などない。犯罪の事実も、イラクの現実も、とりあえずあるのは、誰かの視点から様々な出来事の断片を繋ぎ合わせた物語でしかない。利害や思想の異なる人々の間には、当然だが、事実認識や現実認識にズレが生じる。

裁判とは、検察側と弁護側という対立した立場の事実認識を調停する場である。検察側も弁護側も断片的な事実を拾い出し、その中から点と線を結び、自分の立場にとって都合のいい物語(=事実認識)をつくる。検察側は、国家権力を背後にもつ圧倒的に有利な立場にあるため、日本では有罪になる率は限りなく100%に近いのだが。

だが、見落とされてしまいがちなのは、被告(やその家族)、あるいは犯罪の場合は被害者(やその家族)にとって、検察官や弁護士や裁判官といった法律家たちが、紛れもない他者であるということだ。
裁判はともすると、被告自身やその家族、被害者やその家族といった他者を置き去りにしたまま、判決という妥協的な事実認識を創造する。テロや殺人などの凶悪犯罪を行った人々の弁護をする安田好弘という弁護士は、被告という他者に対して、驚くべきほどの誠実さとねばり強さをもって関わる希有な存在である。

テロや凶悪犯罪を行った人間を弁護するようなやつからは弁護士資格を剥奪せよ、と叫ぶ橋本大阪府知事も弁護士ではあるが、彼のような客観的視点を持たない、いや、持とうとする意志さえないような人間が大衆の支持を集める今の日本は、主観・独善の暴走に向かう危険な状態にあるのかもしれない。

以上のようなことを、生徒さんの答案と佐藤優氏の『国家と神とマルクス』(太陽企画出版 2007年)を読んで、考えました。

【2009/03/23 05:32】 | 答案から | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
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